映画『花束みたいな恋をした』
とても良かったです!
後半は自分と重ねる部分ばかりで、ずっと泣いてしまった。
前半は恥ずかしい感じでしたね〜。
○内容
大学生の麦と絹は、終電後の駅前で出会う。
小説や映画、音楽の好みが合う二人は惹かれあい、付き合うことになる。
就活がうまくいかず、アルバイトをして暮らすことに決めた二人。麦はイラストレーターを目指し、知り合いから少しずつ依頼を受け始めていた。
大学卒業前から同棲を始め、アルバイトと親の仕送りで生計を立てていた二人。しかしそれぞれの親から「普通に」働けと説得される。仕送りも打ち切られ、仕方なく就活をすることに。
絹は資格を取り、先に就職した。一方で麦の就活は難航したけれど、なんとか営業の仕事に就く。
仕事で帰りは遅くなり、段々と気持ちに余裕がなくなっていく麦。好きだったはずの映画もつまらなく感じ、舞台の予定よりも仕事を優先してしまう。
一方で絹は、やっぱり好きなことをして生きていきたいと考え、イベント会社に転職を決める。お給料は下がっても、やりがいはあると思ったのだが、麦には反対されてしまう。
遊びみたいなことして生きていくのか?そんなことしてなんになるの?という麦は、「普通に」働く人のようなことを言う。
絹の母の言葉、『人生には責任がある』。これを大学生の頃の二人は、そんなことないと思って聞いていた。
社会に出た麦は、気付けば同じ台詞を言っていた。かつて思ってもいなかった大人に変わってしまった。
すれ違う二人の描写がリアルでした。
○感想
多摩川が舞台。ソラニンもそうでしたね。多摩川はそういう若い恋人たちを書くのに良い舞台なんだろうか。
私も数ヶ月前から多摩川沿いに住んでいて、なんだか不安な気持ちになりました。多摩川沿い歩いたよ、幸せな気持ちで。
映画の中で、変わっていく麦の様子が辛かったです。
もがいて苦しくて、ある方向に向かっていっていることはわかっていて、それがいいのか悪いのかわからないまま、止められない。
自分たちの関係が腐っていくのも、仕事に忙殺されていくのも、わかっているのに向き合えなくて、正当化してしまう。
がんばっている自分を、がんばっていることを正当化しないとやりきれない日々。
好きだった本も漫画も読めないし、ゲームだってもうパズドラしかできない。という描写は多くの若い社会人になって刺さったと思います。
しんどくなると頭使う趣味が難しくなるよね。
そしてそれだけ限界まで精神をすり減らしていると、他者へ不寛容になっていく。
同僚にも、恋人にも苛立つ麦は、仕事がうまくいかない時期の自分みたい。
一方で絹はイマドキで器用な感じ。
そこそこがんばったら定職につけたし、そこから楽しいと思える仕事と出会って転職できたし。
楽しいことしかやりたくないというのは子供っぽく見えるけれど、本当は皆そうなので仕方ない。好きな本やゲーム、好きな人に囲まれてほどほどな生活で良くない?という感じ。
なんとなく、ニュースでやってるUberで生計立ててる子みたいだった。(Uberは個人事業主で後ろ盾がない。)
(と思ったら昨日イギリスでUber側が敗訴、請負事業者ではなく労働者という判決が出ていた。)
映画としては、若い二人の価値観が働き方によってずれていくことを描いていて、広くみんなに刺さりそうでした。
どちらが悪いというわけではなく、人生の転機には人の考え方は変わるし、特に余裕のある学生時代と社会人とでは、その変化は大きいというだけ。
ただ、麦には転職して欲しかったな。やりがい搾取のブラック労働は人を変えてしまうので。
本人の元々の価値観によらず「労働は善なり」という思想を刷り込まれていたように見えました。
個人的には現実と折り合いをつける(=本意でない仕事をする)ことは悪いことではないと思うし、自分の世界が広がるし良いことと思っています。これは「普通」の大人の考え方なのかも。
おしまい。
面白かった考察