みたら書く

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フェミニストとして活動することを決めた

 

タイトルで宣言したけれど、実際はもうずっと前からフェミニストだったと思う。

 

身近な人に、

「家事・育児は女性の役割と決まっているわけではない。」

「女性も人生を選択できるように経済的に自立すべき。」

「選択的夫婦別姓はまだできないって知ってる?そのことで私は困っている。」

「痴漢を女のせいにしないで、悪いのは加害者であって被害者ではない。」

なんて話す機会は多くあったし、理系女性のキャリアを考えるイベントを開いたこともあるし。自分でたくさん勉強して、たくさん考えてきたつもり。

 

そんな私を理解してくれる人もいたし、反論してくる人もいた。私にその話を振ると面倒だと、話題に出さなくなった人もいた。伝えることで少しでも周りの意識が変わり、私自身が生きやすくなれば良いなと考えていたけれど、現実は違った。最も身近な人でさえ、直接話すだけでは考えが変わらないことがほとんどだった。

 

一方で、私の家族も友人たちも、私自身だって、持っている価値観は環境に大きく左右されるものだ。私一人の言葉で変えられなくても、環境が変わればもしかして。

 

他人の価値観を変えようとすることは傲慢かもしれない。その葛藤はずっとある。でも、私の言葉が届かなかった人に、いつか理解してもらいたいと思う。理解されないことは泣きたくなるほど辛い。対話している相手が自分の言葉よりも、世の中の常識と呼ばれるよくわからない価値観を優先しているのだと思うと、悲しい。

 

でももう悲しんでいるだけではだめなのではないか。誰かのせいにして嘆く自分を、格好悪いと思うようになってしまった。私はもう自立した、立派な大人だ。

 

 

フェミニスト」の定義(広辞苑より)

 ①女性解放論者、女権利拡張論者。②女に甘い男。女性尊重を説く男性。

 

 

ここまでなんとなくかっこつけて描いてみましたが、要するに「世の中は努力しなければ変わらない」と、この年になってようやく気付いたわけです。さらに「その努力は自分がするものではない、自分以外の誰かがやってくれるものだろう」という甘えた考えを持っていたことにも、同時に気付いてしまいました。

 

 

これまでは目の前のことをどうやり過ごすかしか考えられなかった。既存のルールがおかしいと思っても、その中で戦っていくしかないじゃんと思っていた。そのルールをうまく使って、なんなら逆手にとって、器用に生きた方が得でしょう?なんて思っていた。バカだった。

 

私がこれからフェミニストとして活動していっても、私自身に利益はないかもしれない。もう学生ではないし、新卒での就職活動は終わったし、結婚して名前は変えてしまったし。子供を産むとしても、すぐに世の中は変わらないから間に合わないだろう。

 

それでも今、行動したいと思ったのは、不平不満を垂れながら、器用なふりをして、嫌なことから目を逸らしていきたくないと思ったから。

次の世代に「こんな世の中に誰がした?」と後ろ指を刺されたくない、と書いてみたけど、これもかっこつけ。本当は今何もしない自分自身への弁解。「実際に動いてみたけど、それでもだめだったんだよ。」という言い訳をしたいだけかもしれない。

 

具体的な活動はまた後日、少しずつ投稿していきます。

 

おしまい。

 

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