2019年度東大入学式の祝辞が有名な上野千鶴子さんの著書です。
ちょっと忙しくて感想をまとめ切れず、今回はメモのみです。
この本で引き合いに出されていた小説も読んだ。こちらもまた衝撃的。
○内容
まず、辛辣でたまらなかった部分を引用。
男仕立てのルールにはいつも、ルール違反を許容するウラがある。低階層の女は正妻にはなれないが、愛人や妾にはなれる。
女とは男の外見に惹きつけられる単純な生き物だと見なされているようだ。あるいは自分自身が異性に対して示す反応を相手に対しても投影することで、かれ自身の異性観の貧しさを示しているだけかもしれないが。
ここからは私的なメモです。
ミソジニーとは?
主語を男性にすると女性蔑視であり、主語を女性にすると自己嫌悪である。
女好き男?
男性を男性たらしめるものは女性の存在であり、彼らは自身のアイデンティティを他者に依存しているといえる。そのなかでも女性の快楽は男性のセクシャリティの達成を評価するものと思われている。安全圏から見下している女を見て、その女らしい記号に欲情し、支配していると思い込む。彼らは見下している女の存在から逃れられないし、彼らの書くものは「女の話」ではなく「男の妄想」に過ぎないのだ。西洋人のオリエンタリズムと同じだ。蝶々夫人のマダム・バタフライと同じ、都合の良い妄想。人種はジェンダーと同様歴史の構築物であり、例えば「高貴な白人」の証明のために「劣勢人種としての黒人」をは設定される。
手に負える程度の女しか愛せないのではないか。
ホモファビア?
男から認められることこそ男にとって至極である。男と認め合った者たちは、男になり損ねた者と、女全てを差別することで成り立つ。性的主体であることが男であることを証明する。
フロイトの生の欲動。
なりたい要望と持ちたい要望。父のようになり、母のような存在を持ちたいと思うのが男であり、その逆が女である。
ラカン「欲望とは他者の欲望である」
先日の投稿にも出てくる二人。
女性蔑視と女性崇拝という相反する価値観がある。
英雄色を好む、しかし無知で無垢な女に価値があるという性の二重化。
「聖女と娼婦」「妻・母と売女」「結婚相手と遊び相手」「地女と遊女」
人種が違えば人間ではない(ナチスのような)というような考え方が、この対比をより明らかにする。同じ女性同士でも、自身を前者に置くために、後者を差別することになる。しかし後者も前者を無力で男に依存するものと哀れむ。結局、どちらの女性も抑圧されている。母のような優しさか、性処理道具かなんて、同じ穴のムジナだ。
非モテ?
高度成長期より前の時代は、上位の男に女が集まり、「甲斐性のある男」は正妻・愛人・妾を囲い込んだが、その分独身男性は多かった。高度成長期以降、一夫一婦制が浸透し全員結婚社会になった。1960年代半ばからは下降し今では結婚はただ選択肢の一つに成り下がった。
非モテというのはむしろずっとある存在で、ただ1955〜1970年あたりのみ、ほぼ100%の男に女が行き渡っていただけなのだ。
○感想
自分が興味のある分野について、頭が良い人が論じてくれるとこうも気持ちがいいものかと、改めて感じました。ある専門分野の研究者とかって、人の論文を読むときに同じような感覚になるのかな。
ホモファビアの章を読んでいて、周りが結婚し始めた男が、我も我もと結婚していくのも、同じ思考なのかなあなんて思ってしまった。
バイアスかかりまくりなんだけど、少し前に会社の役員と話してやっぱすごいなあと感動してしまった。歴史に文化に芸術に詳しい、と思ったらフェミニズムまで語ってくれる。 そういうふうにフェミニズムを語れる男性が増えたらいいな。女性の支持を集められたり、教養としてかっこつけの道具にしたりできると思うし。
おしまい。